1995年8月、病気療養のために退任した豊田達郎前社長の後を引き継ぎ、トヨタ自動車の社長に就任した奥田碩氏は、豊田章一郎会長と共に臨んだ社長交代会見で、次のように発言します。「社長に指名された時には正直驚いた。この歳で引き受けるのは精神的、身体的にも厳しいが、トヨタ、グループ、日本のためになるなら精一杯やりたい」。この発言については周囲から随分反響があったようで、中には出世が遅れたことへの怨嗟から出た、例の歯に衣着せぬ物言いではないかという勘繰りもあっただろうと思います。しかし、ご子息には「若くなければ体力が持たないということだ。交渉でも相手が若ければ体力負けする。次の社長は50歳代でなければならない」と話していたそうです。
考えてみれば、当時はバブル崩壊の後遺症が日本経済のあちらこちらに現われ始めた時期で、今から振り返れば、高度経済成長期から続いてきた右肩上がりのパラダイム(枠組み)が終焉した時期でした。1999年に、ボクが証券会社を辞めたきっかけとなった早期退職制度も、この時期の日本経済の混乱、就中(なかんずく)金融機関の大混乱が原因であり、1997年の北海道拓殖銀行、4大証券会社の一角であった山一證券、1998年の日本債券信用銀行、日本長期信用銀行など、戦後の日本の経済成長を支えてきた大型金融機関の破綻を見て、勤め先の会社がリストラの方策として導入した制度でした。
奇しくも、この1999年という年は奥田氏の社長退任(会長就任)の年に当たります。当時、大手証券会社でこの大混乱の時期を目の当たりにしてきたボクから見れば、その渦中における会社経営の舵取りの難しさは格別なものであったと思います。この時期は、まだ「成長神話」が根強く残っており、多くの人が、いずれ以前のように経済は成長基調を取り戻すだろうという幻想を抱いていた(今でも、こうした夢から覚めない人たちがいるのには閉口します)中でしたが、奥田氏には日本経済のこのパラダイム転換がはっきりと見えていたのだと思います。それは、不遇だったフィリピン勤務の経験が足掛かりとなり、その後も世界にネットワークを築いてきた奥田氏ならではの慧眼の賜物だったと言えます。
このパラダイム転換に応じるため、奥田氏は矢継ぎ早に新しい方針を打ち出し、着実に実行に移していきます。その様子について、『奥田イズムがトヨタを変えた』(日本経済新聞社編)では、「以前のトヨタに最も欠けていたのが実行力」であり、「企画を立ててもなかなか実行に移せない」ということが社内の沈滞ムードを招いていた。そこに「(決済の)ハンコはポンポン押すという奥田が登場した」と幾分ユーモラスに活写されています。しかし、その背景には社長就任時の「これからのトヨタは何も変えないことが最も悪いことだと思って欲しい。果敢に挑戦した事実に対し、正当な評価をしていきたい」という宣言に込められた、奥田氏の並々ならぬ決意と責任感があったことは間違いないと思います。
こうした経営姿勢と実績が評価され、奥田氏は『ビジネスウィーク』1997年新年号で、世界の最優秀経営者25人の中の一人に選ばれます。その理由は、大企業病の早期克服とグローバル化の推進でした。
(つづく)
考えてみれば、当時はバブル崩壊の後遺症が日本経済のあちらこちらに現われ始めた時期で、今から振り返れば、高度経済成長期から続いてきた右肩上がりのパラダイム(枠組み)が終焉した時期でした。1999年に、ボクが証券会社を辞めたきっかけとなった早期退職制度も、この時期の日本経済の混乱、就中(なかんずく)金融機関の大混乱が原因であり、1997年の北海道拓殖銀行、4大証券会社の一角であった山一證券、1998年の日本債券信用銀行、日本長期信用銀行など、戦後の日本の経済成長を支えてきた大型金融機関の破綻を見て、勤め先の会社がリストラの方策として導入した制度でした。
奇しくも、この1999年という年は奥田氏の社長退任(会長就任)の年に当たります。当時、大手証券会社でこの大混乱の時期を目の当たりにしてきたボクから見れば、その渦中における会社経営の舵取りの難しさは格別なものであったと思います。この時期は、まだ「成長神話」が根強く残っており、多くの人が、いずれ以前のように経済は成長基調を取り戻すだろうという幻想を抱いていた(今でも、こうした夢から覚めない人たちがいるのには閉口します)中でしたが、奥田氏には日本経済のこのパラダイム転換がはっきりと見えていたのだと思います。それは、不遇だったフィリピン勤務の経験が足掛かりとなり、その後も世界にネットワークを築いてきた奥田氏ならではの慧眼の賜物だったと言えます。
このパラダイム転換に応じるため、奥田氏は矢継ぎ早に新しい方針を打ち出し、着実に実行に移していきます。その様子について、『奥田イズムがトヨタを変えた』(日本経済新聞社編)では、「以前のトヨタに最も欠けていたのが実行力」であり、「企画を立ててもなかなか実行に移せない」ということが社内の沈滞ムードを招いていた。そこに「(決済の)ハンコはポンポン押すという奥田が登場した」と幾分ユーモラスに活写されています。しかし、その背景には社長就任時の「これからのトヨタは何も変えないことが最も悪いことだと思って欲しい。果敢に挑戦した事実に対し、正当な評価をしていきたい」という宣言に込められた、奥田氏の並々ならぬ決意と責任感があったことは間違いないと思います。
こうした経営姿勢と実績が評価され、奥田氏は『ビジネスウィーク』1997年新年号で、世界の最優秀経営者25人の中の一人に選ばれます。その理由は、大企業病の早期克服とグローバル化の推進でした。
(つづく)