福山平成大学 小川教授の 「経営の福袋」第72回 仕事の幸福(下)

 では、ここで再度、煉瓦積みの話に戻りましょう。最初の若者は、煉瓦を積むのが自分の仕事だと答えています。彼は、自らが携わる作業や役務を自分の仕事だと伝えるに止まり、「仕事の意味」にまで言及していません。これは、ボクが人から自分の職業を聞かれて「証券マンです」とか、「学者です」と答えているようなものです。他にも多くの仕事を経験してきましたが、もしそれらの仕事の意味を思い起こすならば、それは言うほど単純ではありません。その時々の環境、社会の価値観、ボクの置かれた立場、出会った人々等によって、ボクにとっての仕事の意味は大きく違っていたからです。
 ただ、仕事の意味は異なっているものの、それらは大きく二つのカテゴリーに分類できます。一方は、二人目の若者の答えと同じ、「お金を稼ぐために仕事をしている」という意味です。他に、「生活の糧を得るため」や「家族を養うため」なども、この範疇でしょう。確かに、それは仕事の持つ重要な意味であり、それに異議を唱えるつもりはありません。それ故に、前回お話しした経済学の理論の前提には、「仕事(労働)」とはヒトが賃金と引き換えに労働力を提供することだという、大方の人が納得する仮定が置かれている訳です。
 次に、もう一方のカテゴリーに分類できるのが、「村人たちのために教会を建てるのが自分の仕事だ」という三人目の若者の答えです。彼は、それは「村人たち皆が集い、祈りを捧げるための教会」だとも言っています。つまり彼は、誰かの役に立つこと、誰かに喜びをもたらすことが自らの仕事の意味だというのです。ただし通常、誰しもがそう考えている訳ではないので、経済学の仮定にはなっていません。では、両者の違いは何なのでしょうか?
 それは、視点の違いだとボクは考えています。前者の視点は、自分を中心とする視点、つまり「自利」の視点です。それが悪いという訳ではありません。われわれは皆、個々の生物ですから、自分が自分を可愛いと思うのは当たり前です。でも、もし、みんながそうとばかり考えてしまうと、仕事が苦痛になることを経済学は示唆しています。そして、もし仕事が苦痛以外の何ものでもないとすれば、どこに「仕事の幸福」などあると言うのでしょうか。
 それに対して、後者の視点は、自分だけではなく他者をも包括する視点です。それは仏教で説かれている「自利利他」の考え方に似ています。自利利他とは、修行によって自らが得た功徳を、他者にも分け施すという意味で、こうしてもたらされる他者の幸せが、自分の幸せにも繋がるという訳です。どうも、この辺りに仕事の意味や喜び、やりがいがあるのだろうとボクは思います。そして、それこそが「仕事の幸福」の源泉なのではないかと考えているのです。
 先述のように、ボクたちは一生のうちの多くの時間と労力を仕事に費やすことになります。では長い一生、日々「今日も生活のための金を稼ぐため、苦痛を我慢しなければならない」と仕事に向かうのと、「今日も誰かの役に立つ仕事をして、誰かを幸せにしよう」と考えながら仕事に向かうのと、どちらが幸せなのでしょう。ボクは、迷わず後者を選び実践します。なぜなら、そこにこそ「仕事の幸福」があると思っているからです。