前回お話しした3人の煉瓦積みの話を、大学の講義で学生たちにもするのですが、この話の後に次のように続けます。われわれは誰しも、1日24時間という時間の制約の中で生きています。この稀少な人生の時間を大雑把に割り振れば、仕事をしている時間が8時間、寝ている時間が8時間、それ以外の時間が8時間と言えるでしょう。そうすると、大方の人は目覚めている時間の半分を仕事に充てている計算になり、残りの半分で食事や入浴、家族サービスや趣味などの時間を過ごしている訳です。ただし、その時間の中にさえ出勤前の用意の時間や通勤などの、仕事に関連した時間があり、それを勘案すれば1日のうちで最も長い時間を仕事に費やしていると言えるのではないでしょうか。
さらに、皆さんが大学を卒業して社会人となるのは、だいたい22歳か23歳でしょうから、定年が65歳だとすると、卒業した後40年以上に亘って仕事に携わって生きていくことになります。また、就職前や定年後にパートやアルバイトなどで働く人も少なくないでしょう。つまり、人間の寿命がおよそ80年だとすると、われわれは人生の半分以上の年月を仕事に費やす計算になります。こうして考えてみると、極端に言えば、ボクたちは仕事をするために生きていると言っても過言ではないように思います。そうであれば、多くの人にとって自らが携わる仕事の持つ意味が、その人の人生の質を決めると言えるのではないでしょうか。それにもかかわらず、多くの人は自らの「仕事の意味」を真摯に考えることが少ないように思えてなりません。
表面的な現象だけを見れば、誰しも仕事に自らの時間と労力を費やし、その対価を受け取っているということに違いはありません。少し専門的な話になりますが、これが最も抽象的な「仕事」の概念であり、「経済学」という学問分野においては、その理論を一般化かつ精緻化するため、「労働」(仕事)とは、労働者が自らの「時間」という限られた資源を「賃金」と引き換えに提供することであると仮定しています。さらに、経済学の理論の前提には、人(買い手)は自らの「効用」(いわゆる満足度のこと)を最大化するために経済行動を取る(「行動原理」と言います)という仮定がありますので、それに照らし合わせると一般に労働は人の効用を減じさせるもの(つまり苦痛)だとされています。
また経済学は、この労働の対概念として「余暇(レジャー)」を設定しています。すなわち、人は自分の時間という限られた資源の最適な配分に当たり、自らの効用を最大化するため、いかに苦痛(負の効用)である労働に費やす時間を低減し、それを効用の高い余暇の時間に振り向けるかということを経済学は考えている訳で、これも一種の経済学的な「効率」の追求ということなのです。もちろん、経済学がその理論を構築するために設けた仮定自体を否定するのは全くのナンセンスです。しかし、問題はそれが、あくまでも理論上の仮定であるにもかかわらず、そのことを忘れて、すべての現実に当てはめようとするところにあるとボクは考えている訳です。
そこで、学生たちに問います。そして、皆さまにも問うてみたい。「仕事(労働)とは、本当に苦痛なのだろうか?」 (つづく)
さらに、皆さんが大学を卒業して社会人となるのは、だいたい22歳か23歳でしょうから、定年が65歳だとすると、卒業した後40年以上に亘って仕事に携わって生きていくことになります。また、就職前や定年後にパートやアルバイトなどで働く人も少なくないでしょう。つまり、人間の寿命がおよそ80年だとすると、われわれは人生の半分以上の年月を仕事に費やす計算になります。こうして考えてみると、極端に言えば、ボクたちは仕事をするために生きていると言っても過言ではないように思います。そうであれば、多くの人にとって自らが携わる仕事の持つ意味が、その人の人生の質を決めると言えるのではないでしょうか。それにもかかわらず、多くの人は自らの「仕事の意味」を真摯に考えることが少ないように思えてなりません。
表面的な現象だけを見れば、誰しも仕事に自らの時間と労力を費やし、その対価を受け取っているということに違いはありません。少し専門的な話になりますが、これが最も抽象的な「仕事」の概念であり、「経済学」という学問分野においては、その理論を一般化かつ精緻化するため、「労働」(仕事)とは、労働者が自らの「時間」という限られた資源を「賃金」と引き換えに提供することであると仮定しています。さらに、経済学の理論の前提には、人(買い手)は自らの「効用」(いわゆる満足度のこと)を最大化するために経済行動を取る(「行動原理」と言います)という仮定がありますので、それに照らし合わせると一般に労働は人の効用を減じさせるもの(つまり苦痛)だとされています。
また経済学は、この労働の対概念として「余暇(レジャー)」を設定しています。すなわち、人は自分の時間という限られた資源の最適な配分に当たり、自らの効用を最大化するため、いかに苦痛(負の効用)である労働に費やす時間を低減し、それを効用の高い余暇の時間に振り向けるかということを経済学は考えている訳で、これも一種の経済学的な「効率」の追求ということなのです。もちろん、経済学がその理論を構築するために設けた仮定自体を否定するのは全くのナンセンスです。しかし、問題はそれが、あくまでも理論上の仮定であるにもかかわらず、そのことを忘れて、すべての現実に当てはめようとするところにあるとボクは考えている訳です。
そこで、学生たちに問います。そして、皆さまにも問うてみたい。「仕事(労働)とは、本当に苦痛なのだろうか?」 (つづく)