社会学者のニコラス・ルーマンは、こうした他者との関係における不確実さを解消するため、われわれは法律を始めとする様々なルールを定め、契約制度を構築することによって、他者との約束や取引が確実に履行されるような社会システムを作り上げてきたのだと言います。言わば、それが信用社会であり、信用経済です。確かに、こうした社会システムによって社会の秩序は保たれ、われわれは安全な暮らしを送ることができ、他者との取引も安心して行うことができるようになりました。
換言すれば、社会システムによって、われわれは「信頼」の関係を「信用」の関係に置き換えてきたと言うことができます(ルーマンが、こうした表現を使っているわけではないのですが…)。「社会システム論」を提唱したルーマンは、すべての社会関係はシステム化できると考えていましたが、その実現は難しいのではないかとボクは思います。なぜなら、どれほど精緻なシステムを作り上げたとしても、それが人間と人間との関係である以上、人間の持つ弱さや脆さを起因とする不確実性から完全に逃れることはできないからです。
例えば、AさんがBさんにPを実現してくれれば対価としてQを支払うという約束をしたとします。信用関係においては、結果的にPが実現されなかった場合、AさんからBさんにQが支払われることはありません。それが契約というものです。また、もし、どちらか一方が契約を履行しているにも関わらず、他方が履行しない場合、法律やルールによって履行した側の債権は保護されます。しかし、その過程までを勘案した時、それほどドライに割り切れない場面もあり得るのではないでしょうか。
例えば、Aさんからの負託を受けたBさんが、AさんのためにPを実現しようと力を尽くしたにもかかわらずPが実現できなかった場合と、Aさんからの負託に最初から応える気などなく、努力を怠ったためPが実現されなかった場合、Pが実現されなかったという結果は一緒ですが、両者を同じことだと考えることに違和感を持つ人は多いのではないでしょうか。ボクは、ここに信用と信頼の違いがあるのではないかと考えています。
つまり信頼関係とは、一方の人の、この人には負託したことを実現してくれる力があり、私のために尽力してくれるだろうと信じる気持ちと、もう一方の人の、この人は私を信じて託してくれているのだから、この人のために力を尽くそうという気持ちが重なり合い、互いのそうした気持ちを信じて頼り合う、そうした関係なのです。そして、なぜこうした関係が大切なのかと言えば、われわれは誰しも前者の立場にも後者の立場にもなり得るからです。
「アメリカ生まれの日本の味」というキャッチフレーズで愛されている「ヨシダソース」を、米国で創業した吉田潤喜さんは、「あの人は信頼できるという人がたった一人現れたら、そこから人生の道は開ける」と語っています。