福山平成大学 小川教授の「経営の福袋」第47回 地方が都市を救わねばならぬ

今年も、早や師走半ばとなりました。以前は、師走という言葉を耳にすると世間が慌ただしくなり、気持ちも浮き立ってきたものですが、最近さほどそうした気配を感じないのは、やはり年を取ったせいかもしれません。しかし、それを差し引いても世の中がどこか平坦になり、生活に抑揚がなくなってきているように思うのはボクだけでしょうか。その背景には、次のような三つの原因があるのではないかと考えられます。

 第一に、日々大量の情報の波に追い立てられて世の中全体が落ち着きを失い、師走になっても日頃同様の日々が続き、取り立てて特別な感じがしないこと。第二に、リベラリズムの浸透により多くの人が個人主義的な価値観に囚われ、自ら興味のある目先のことのみに心を奪われてしまい他者や周りのこと、伝統や文化などを軽視する傾向にあること。第三に、人々の購買形態の軸足が実店舗から電子取引に移り、人と人とを介した年末特有の活気ある取引の風景が見られなくなってきたことです。

 さて、今年は民藝運動100周年の年でした。民藝運動とは近代日本を代表する思想家の一人、柳宗悦が主唱し、それに共鳴する陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司、版画家の棟方志功、染色工芸家の芹沢銈介らと共に展開した生活文化運動のことです。彼らは、急速に工業化や都市化が進展していた当時、商業主義的な工業製品の持つ無機質さに対して、素朴さと温かみを宿す日本各地の無名の職人たちが作った「雑器」の美に目を開かれていきます。民藝とは「民衆的工藝」の略語で、民衆が民衆の日常生活を支えるために作った日用品のことを指し、そこに彼らは「用の美」と言われる美しさを見出すのです。

 このことについて柳は、著書『雑器の美』に「無学な職人から作られたもの、遠い片田舎から運ばれたもの、当時の民衆の誰もが用ゐしもの、下物と呼ばれて日々の雑具に用ゐられるもの、裏手の暗き室々で使はれるもの、彩りもなく貧しき素朴なもの、数も多く価も廉きもの、この低い器の中に高い美が宿るとは、何の摂理であらうか」とし、さらに「而も奉仕に一生を委ねるもの、自からを捧げて日々の用を務むるもの、倦むことなく現実の世に働くもの、健康と満足とのうちにその日を暮すもの、誰もの生活に幸福を贈らうと志すもの、それ等の慎ましい器の一生に、美が包まれるとは、驚くべき事柄ではないか」とも記しています。

 こうした文章を読むと、単に「民藝」と呼ばれる雑器に宿る美そのものに止まらず、その背景にある、その地その地においてそれらをこつこつと作り続ける人々の誠実な仕事振りや、それらを用いて日々の生活を送る人々の実直な暮らし振りへの礼賛が滲み出ているように思います。そして、柳は言うのです。「私たちは自然と生活とに即して発した民藝から多分に工藝の律を学ぶ。都市が地方を害うべきではなく、地方が都市を救わねばならぬ」(『地方の民藝』)のだと。

 地方で働き、地方で暮らし、地方で生きていく我々こそ、こうした気概を蘇らせねばならないのではないかとボクは思うのです。