福山平成大学 小川教授の「経営の福袋」第34回 故郷(ふるさと)(中)

 稲盛さんを塾長とする、『盛和塾』という経営者の勉強会の機関誌第100号に、自らが最も愛している歌がこの「故郷」だと稲盛さんは書いています。そして、「私は九州の出身で貧しい家庭に育ち京都に出てきましたが、いつも自分をはぐくみ育ててくれた山川、故郷を思い浮かべてその恩に感謝しつつ、仕事で苦しいとき、淋しいとき、一人野原に出て、故郷で幼い頃習ったこの歌をうたって自分を癒し、ともすれば崩れようとする気持ちを励ましてがんばってきました」と記しています。

 また、1989年に発行された著書『心を高める、経営を伸ばす』の中にも、「会社での研究も、人間関係もうまくいかず、日が暮れると、寮の裏の桜並木が続く小川へ一人で出かけていきました。そして、小川のほとりに腰かけて、唱歌の「故郷」をよく歌ったものでした。心の傷みが積もり積もって、どうにもならなかったのです」という記述があります。

 これについて稲盛さんは、社会人となった頃、やることなすこと上手くいかなかったが、そうした苦しい時には思い切り歌うことによって自分を元気づけ、気分を一新して次の日にはまた会社へ出掛けて懸命に働いたのだと述べ、「悩みは、いつでも、誰にでも、どこにでもあります。しかし、そういう状況の中でも、気分転換を図り、明日への希望と明るさだけは失わないようにしなければなりません」と当時を回顧しています。

 これを読むと「故郷」を歌うことが、稲盛さんの気分転換法だったと思われるかもしれませんが、それは違うのではないかとボクは思います。これらを読むとボクの心には、夕暮れの川端で、うなだれ肩を震わせながら涙交じりに「故郷」を口ずさんでいる作業服姿の稲盛さんが、まざまざと浮かんできます。もし、こうした情景に遭遇すれば、それが稲盛さんでなかったとしても、その人の切ない気持ちが伝わってくるように思います。仕事で追い詰められ、崩れてしまいそうな時に、稲盛さんを支えた最後の砦が自らの心の中にあった故郷の姿だったのだと思うのです。つまり、それは生まれ育った故郷の山や川の情景であり、懐かしい父や母、兄弟や姉妹のことであり、ともに遊び、泣き笑いした幼友達の姿だったのではないでしょうか。

 世間では、稲盛さんは信念の人、努力の人、アイデアの人、卓越したリーダーであり、経営者の鑑として、今も多くの人の尊敬を集めています。それは本当にその通りです。しかし、その一方で、稲盛さんもボクたち同様に多くの苦しみや悲しみに遭い、何度も会社に行きたくない、すべてを投げ出してしまいたいと思ったと述懐しています。しかし、それを根底で支えたのが故郷への思いであり、「志を果たして、いつの日にか帰らん」という気概だったのだろうと思います。

 きっと、稲盛さんの他者に対する人一倍の思い遣りの源泉は、誰にも故郷があり、誰しも故郷への愛を持っているという共感への信頼にあったものと、ボクは信じているのです。(つづく)