既に師走も半ばを過ぎ、街角で飾り付けられたクリスマス・ツリーを目にし、「ジングルベル」のメロディを耳にすると、年末の慌ただしさとも相まって、誰しも心が浮き立ってきます。その理由の一つは、楽しいクリスマスが近づいてくるという実感が湧いてくるからではないでしょうか。しかし、ご存じのように、本来クリスマスとはイエス・キリストの降誕祭のことであり、クリスマスイブとは聖夜のことなのですが…。
そこで、今回はクリスマスに因み、新約聖書の中で最もボクの心に残っている、「善きサマリア人」の話をご紹介したいと思います。この話は、「隣人とは誰か」という問いを巡って展開します。あるユダヤ教の律法の専門家がイエスを試そうとして、律法に書いてある「隣人をあなた自身のように愛せよ」ということが正しいとすれば、「私の隣人とは誰ですか」と尋ねます。これに対しイエスは、次のような例え話で応じます。以下、少し長くなりますが引用してみますので、ゆっくりと読んでみてください。
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。たまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。また、同じように、一人のレビ人がそこを通りかかったが、その人を見ると、レビ人も道の向こう側を通っていった。 ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った、『この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時に支払います』。さて、あなたは、この三人のうち強盗に襲われた人に対し、隣人となったのは、誰だと思うか」。律法の専門家が、「憐れみを施した人です」と言うと、イエスは仰せになった、「では、行って、あなたも同じようにしなさい」。(「ルカによる福音書」10・30-37)
文中の「祭司」は祭典を司る立場の人、「レビ人」は祭司の一族で、ともにユダヤ社会では高い地位にあった人たちです。それに対して、「サマリア人」は弱い人たちを象徴しています。つまり、権威をもってユダヤの律法を説く祭司も、その知識を身に付けているレビ人も、困っている人を見て見ぬふりして通り過ぎたのに対し、日頃、蔑まれていたサマリア人の旅人は傷付いた人を憐れみ、施しをしたのです。そして、この旅人こそが傷付いた人の隣人なのだとイエスは説いています。
「さて、私にとって隣人とは誰なのだろう」、「これまで私は、本当に善き隣人だったのだろうか」。今年の聖夜には、こうしたことを静かに考えてみるのもよいのではないでしょうか。